同じ事を続けるのにいったい何の意味があるのだろう?人間は生きていく為に仕事をしていかなければならない。それは分かる。だが、そこに意味はあるのか?と考えると、頭を捻らざるを得ない。ルーティン・ワークには、やはり苦痛を伴うと僕は思ってしまうのだ。

 アーティストの中には、一端自分達の「得意技」を見出して、「王道」のパターンを確立してしまうと、ひたすらその道を突っ走る人達もいる。まあ、前提として自分達の「王道」を構築するのは至難の技なのだろうけど、「ホント、飽きもせずこんな曲ばっかり作るよなぁ」と思わず唸りたくなる時が、音楽を聴いてると結構あるのは間違いない事だ。アーティストとして自分を表現する術を心得ているのに、同じ事を繰り返すのは無駄じゃないのかと思ってしまう。

 もちろん、現在進行形で進化・深化を続けているアーティストも大勢いる訳で、僕はそれらのアーティストから以前とは大胆に変化した問題作を届けられると、作品の良し悪しはひとまず置いておいても、真剣に聴き入ってしまう。そして、良い方向に変化したと感じた時ほど、興奮する時もないのだ。

 フィッシュマンズもまさにそういうバンドだった。初期はレゲエをベースにしたコンパクトで高質なポップ・ソングを生み出していて、僕の周りにも初期のフィッシュマンズが好きな人が何人もいる。しかし、やはり僕にとってのフィッシュマンズはポリドールに移籍してからの彼らだと思ってしまう。

 ポリドールに移籍してからのフィッシュマンズは、ハワイスタジオというバンド専用のセルフ・スタジオを獲得した事で、まさに「水を得た魚」の如く、自分達の音楽をもっと先に進めようと実験的な音作りに励んでいた。その縦横無尽に広がりを見せるサウンド・スケールに包まれる事で、僕達は歌詞にも描かれているありふれた平凡な日常の中にいながらも、地球の重力から離れて地上から数センチは浮かんだ気持ちを体験する事が出来た。

 しかし、ポリドール時代の作品が最高かと訊かれると、僕は首を横に振ってしまう。それは、ニルヴァーナの最高傑作を「In Utero」にしてしまうのと同じ意味を持つからだ。フィッシュマンズにしてもニルヴァーナにしても、絶対に当時の作品よりも先の音を生み出せたはずだとどうしても思ってしまうのだ。ポリードール時代の作品にしても、「In Utero」にしても、あくまで過渡期の作品に過ぎないのだ。ネクスト・レベルの音を掴み取ろうと実験を重ねている過程の音なのだ。

 もちろん、これらのバンドが完全な形態で新作を発表する事は決してない。「あー、もし生きていたら、もっと凄い作品が聴けたのになぁ」とほざいているのに過ぎない。だけど、音に対するより高度の欲求を持っていると、諦め切れない思いが残ってしまうのだ。ちょうど届かないはずの手紙の様に…。

Thanks For The Inspirations Of…

THE FISHMANS/「空中キャンプ」「宇宙・日本・世田谷」
NEIL YOUNG/「Decade(輝ける10年)」(⇒嗚呼フジロック…)
LED ZEPPERIN/「? Symbols」
THE ROOTS/「Things Fall Apart」
SLY & THE FAMILY STONE/「Anthology」
BJORK/「Homogenic」
CRAIG DAVID/“Fill Me In”
STEADY & CO./“Stay Gold”
CORNELIUS/“Point Of View Point”
THE CHARLATANS/“Love Is The Key”
TOMMY FEBRUARY6/“Everyday At Bus Stop”
(↓Special Thanx To T.K)
PREFAB SPROUT/「A Life Of Surprises」
TRIBUTE TO THE BLUES/「Evolve Or Die」
ME’SHELL NDEGEOCELLO/「Peace Beyond Passion」

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