表現の難しさ(Hard To Explain)
2001年11月25日 先日付けをもって、カウンターが5000ヒットを達成しました。何だかんだと言いながらも嬉しいものでして、日記を読んでくれているみなさん、どうもありがとう。多謝。
のべ5000人もの人々に自分の書いた文章が読まれた事実を目の前にすると、やはり改めて『「表現すること」とは?』と考えさせられてしまう。僕はこの日記を始めるに当たって、もともと積極的に「オレの日記を見てくれ!」と思っていたわけではないし、「まあ、興味があれば…」くらいの心持ちでいることは、今でも何ら変わりがない。
一度「活動休止」宣言をしたにも関わらず(しかも、はっきりと「撤回」するでもなく、半ばなし崩し的に)この日記を再開したところから考えてみても、僕は自分が認識していた以上に文章を書くということが好きなようだ。
だが、それは同時に自分の完璧主義ぶりを思い知ることにもなった。僕は毎回のように文章が完成したと思った後でも、幾度となく書き加えや手直しを欠かしたことがない。自分の文章を洗い直すことは、思いも寄らないくらい手間のかかる作業であって、これが「活動休止」に至った理由の1つでもあったのは確かだった。
これまで僕は、硬めの文章で比較的ガッチリとこの日記を書いてきたが、これがおそらく僕の文体なのであろう。そして、僕の文体がしっかりと自分の手の中に収まりつつあった手応えも、日記を書き続けるうちに薄々とだが実感できていた。
しかし、その上にあぐらをかいていてはならないと思った。中身は多少違えど、同じ表装をまとった文章を毎日書き続けることにはうんざりしてきた。実験。模索。挑戦。発見。焼け野原には、1本ずつ新たに木を植えていかなければならない。
11月16日の日記は(僕の周囲では)すこぶる評判が良いみたいだが、僕に言わせれば、あれは日々少しづつ書き溜めた(⇒ストック)言葉の断片(⇒マテリアル)に、加筆や修正を施して、編集(⇒エディット)しただけに過ぎない。何とかして文章にまとめたいがどうも上手く結びつかない…そんな内容の羅列であって、『「Kid A」的手法』に近いだろう。書きたくてカオスになっているインプットを、ほぼそのままの純度を保ってダイレクトにアウトプットできたが、これが万能だと僕は思っていない。分かり易いが、論理的ではないからだ。
また、11月19日の日記の狙いは、僕なりのミニマリズムの追及にあった。これまでの僕は、比較的「ある出来事の全容」を書き尽くしたいと思っていたが、それとは正反対の「ある一瞬」を切り出す必要性もある気がしたからだ。もっと状況説明を書き加えたいという欲求をグッと抑えて、あえて言葉足らずな形式に留めておくことにした。
そして、11月22日の日記は、旧態然としていて、いかにも僕らしい文章でありながらも、わざわざ「__________」を使ったことからも分かるように、口語体と文語体の棲み分けと全体の構成に気を配ってみた。可能ならば主観論と客観論の区別を述べるまでへと踏み込んでみたかったが、結局は納得できる内容には至らなかったので、構成を工夫することに矛先を向けたのだ。
こうして自分の日記の種明かしをしたところで、一体どうなるわけでもないだろうが、それもまた面白そうに思えたので、とりあえず深く考えずに書いてみたわけだ。少なくとも、「活動休止」宣言前の僕であったら、こんなことはまずあり得なかっただろう。きっと手抜きのように思えて、書かず終いだったに違いない。そう思うと、今の僕は表現することに対していくらか柔軟になったのかもしれない。
ダウンタウン4年振りのコント番組「ダウンタウンのものごっつええ感じ」を見て彼らの笑いがいまだにトップレベルであることを痛感させられたが、そこには松本人志の才能のシンカ(真価・進化・深化)と円熟があった。新作にしても旧作のリメイクにしても、1つのコントに幾多ものアイデアを計算して混ぜ合わせる手法から、ワン・アイデアで最後まで一気に引き込む手法への大胆なシフト・チェンジが図られていたのが特に印象に残った。
表現者としての自己満足と、受容者としての感銘の折り合いをつけるのは、非常に難しいことだ。日記はパーソナルの極地にあるものだが、人の目に触れる以上はパブリックとしての側面を無視するわけにはいかない。
「オレを納得させられる物事は、同時にみんなも納得させられる物事でもあるはずだ」。僕が思うに、『表現者足る者は「はずだ」という原則を忘れてはならない』のではないだろうか。あくまで、推測でしかないのだから。
「自分を納得させる物事」と「みんなが納得する物事」を少しでも「=」に近づけることが、「表現すること」の理想のように僕には思える。方法論にこだわるのだけが全てではないだろうが、本質がそれなりに見えているからには、方法論だけに偏って堂々巡りになってしまうようなことはないはずだ。
半端じゃない難問に挑んでいるようだろうけど、僕にとって「表現すること」の意義はそうだから仕方がない。「(自分を含めた)みんなが本当に良いと思える内容」を目指してこの日記を書いていきたいので、これからもどうぞよろしく。
Thanks For The Inspirations Of…
PAUL WELLER/「Heavy Soul」
THE BEATLES/「Rubber Soul」
(⇒今の季節の雰囲気にぴったり合うアルバムだと思うのは僕だけだろうか?)
のべ5000人もの人々に自分の書いた文章が読まれた事実を目の前にすると、やはり改めて『「表現すること」とは?』と考えさせられてしまう。僕はこの日記を始めるに当たって、もともと積極的に「オレの日記を見てくれ!」と思っていたわけではないし、「まあ、興味があれば…」くらいの心持ちでいることは、今でも何ら変わりがない。
一度「活動休止」宣言をしたにも関わらず(しかも、はっきりと「撤回」するでもなく、半ばなし崩し的に)この日記を再開したところから考えてみても、僕は自分が認識していた以上に文章を書くということが好きなようだ。
だが、それは同時に自分の完璧主義ぶりを思い知ることにもなった。僕は毎回のように文章が完成したと思った後でも、幾度となく書き加えや手直しを欠かしたことがない。自分の文章を洗い直すことは、思いも寄らないくらい手間のかかる作業であって、これが「活動休止」に至った理由の1つでもあったのは確かだった。
これまで僕は、硬めの文章で比較的ガッチリとこの日記を書いてきたが、これがおそらく僕の文体なのであろう。そして、僕の文体がしっかりと自分の手の中に収まりつつあった手応えも、日記を書き続けるうちに薄々とだが実感できていた。
しかし、その上にあぐらをかいていてはならないと思った。中身は多少違えど、同じ表装をまとった文章を毎日書き続けることにはうんざりしてきた。実験。模索。挑戦。発見。焼け野原には、1本ずつ新たに木を植えていかなければならない。
11月16日の日記は(僕の周囲では)すこぶる評判が良いみたいだが、僕に言わせれば、あれは日々少しづつ書き溜めた(⇒ストック)言葉の断片(⇒マテリアル)に、加筆や修正を施して、編集(⇒エディット)しただけに過ぎない。何とかして文章にまとめたいがどうも上手く結びつかない…そんな内容の羅列であって、『「Kid A」的手法』に近いだろう。書きたくてカオスになっているインプットを、ほぼそのままの純度を保ってダイレクトにアウトプットできたが、これが万能だと僕は思っていない。分かり易いが、論理的ではないからだ。
また、11月19日の日記の狙いは、僕なりのミニマリズムの追及にあった。これまでの僕は、比較的「ある出来事の全容」を書き尽くしたいと思っていたが、それとは正反対の「ある一瞬」を切り出す必要性もある気がしたからだ。もっと状況説明を書き加えたいという欲求をグッと抑えて、あえて言葉足らずな形式に留めておくことにした。
そして、11月22日の日記は、旧態然としていて、いかにも僕らしい文章でありながらも、わざわざ「__________」を使ったことからも分かるように、口語体と文語体の棲み分けと全体の構成に気を配ってみた。可能ならば主観論と客観論の区別を述べるまでへと踏み込んでみたかったが、結局は納得できる内容には至らなかったので、構成を工夫することに矛先を向けたのだ。
こうして自分の日記の種明かしをしたところで、一体どうなるわけでもないだろうが、それもまた面白そうに思えたので、とりあえず深く考えずに書いてみたわけだ。少なくとも、「活動休止」宣言前の僕であったら、こんなことはまずあり得なかっただろう。きっと手抜きのように思えて、書かず終いだったに違いない。そう思うと、今の僕は表現することに対していくらか柔軟になったのかもしれない。
ダウンタウン4年振りのコント番組「ダウンタウンのものごっつええ感じ」を見て彼らの笑いがいまだにトップレベルであることを痛感させられたが、そこには松本人志の才能のシンカ(真価・進化・深化)と円熟があった。新作にしても旧作のリメイクにしても、1つのコントに幾多ものアイデアを計算して混ぜ合わせる手法から、ワン・アイデアで最後まで一気に引き込む手法への大胆なシフト・チェンジが図られていたのが特に印象に残った。
表現者としての自己満足と、受容者としての感銘の折り合いをつけるのは、非常に難しいことだ。日記はパーソナルの極地にあるものだが、人の目に触れる以上はパブリックとしての側面を無視するわけにはいかない。
「オレを納得させられる物事は、同時にみんなも納得させられる物事でもあるはずだ」。僕が思うに、『表現者足る者は「はずだ」という原則を忘れてはならない』のではないだろうか。あくまで、推測でしかないのだから。
「自分を納得させる物事」と「みんなが納得する物事」を少しでも「=」に近づけることが、「表現すること」の理想のように僕には思える。方法論にこだわるのだけが全てではないだろうが、本質がそれなりに見えているからには、方法論だけに偏って堂々巡りになってしまうようなことはないはずだ。
半端じゃない難問に挑んでいるようだろうけど、僕にとって「表現すること」の意義はそうだから仕方がない。「(自分を含めた)みんなが本当に良いと思える内容」を目指してこの日記を書いていきたいので、これからもどうぞよろしく。
Thanks For The Inspirations Of…
PAUL WELLER/「Heavy Soul」
THE BEATLES/「Rubber Soul」
(⇒今の季節の雰囲気にぴったり合うアルバムだと思うのは僕だけだろうか?)
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